天下人『豊臣秀吉』
豊臣秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。
三英傑の一人。織田信長にその才能を認められて信長の家臣としてその実力を十分に発揮し、結果的に一代で天下人まで上り詰めた日本一の出世男でもある。
はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれた。
当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表した。
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと急ぎ戻り、
山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部で勢力争いを起こし、信長の後継の地位を得た。
大坂城を築き関白・太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を臣従させ天下統一を果たした。
太閤検地や刀狩などの画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げるが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して没した。
織田信長の家臣へ
天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕えることになる。
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げた。
また、信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで、信長の歓心をかうことにうまく成功し、次第に織田家の中で頭角をあらわしていった。
秀吉は、その一風変わった風貌によって信長から「猿」や「禿げ鼠」と呼ばれていた。
美濃国の斎藤龍興との戦いにおいて、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある。そして、この戦いの最中に、斎藤氏の影響下にあった美濃より竹中重治、川並衆の蜂須賀正勝、前野長康らを自身の配下に組み入れている。
元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、
金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、
秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた。
そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いにおいて大功をあげることに成功した。
羽柴秀吉への改名
天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、
今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。
この頃、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。
秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。
さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。
中国地方攻め
織田信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進攻し、かつての播磨守護赤松氏の勢力である赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。
さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。
天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる
天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。
同年、播磨から北上し但馬国にも侵攻し、かつての但馬守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた旧守護家山名堯熙が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏として平定した。
天正9年(1581年)には、因幡の因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いた。
天正10年(1582年)には備中国に侵攻し(中国攻め)、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。
中国大返し
天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、信長の重臣であった明智光秀の謀反により死去した(本能寺の変)。
このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉はその事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。
秀吉勢の突然の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦った。
しかし、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。
秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。
清洲会議
天正10年(1582年)6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。
織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。
勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。
信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、筒井順慶は大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の滋賀・高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられた。
勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。
秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。
これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのであった。
詳細情報
- 生没年:1537年2月6日〜1598年8月18日(天文6〜慶長3)
- 出身地:尾張国(愛知県)
- 肩書き:武将
- 別名:木綿藤吉、木下藤吉郎、豊太閤
- 幼名:日吉丸
- 通称:猿
- 官位:関白、太政大臣、贈正一位
- 享年:62歳
年表
- 1537年:尾張国に生まれる
- 1573年:長浜城主に任命
- 1582年:本能寺の変。山崎の合戦
- 1583年:賤ヶ岳の合戦
- 1584年:小牧・長久手の合戦
- 1585年:四国平定を果し関白となる
- 1590年:小田原征伐により天下統一
- 1592年:文禄の役
- 1597年:慶長の役
- 1598年:伏見城で病死
豊臣秀吉肖像画
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